鴉番組 KARASU CHANNEL
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HOMESIGHTSEEING敦賀市の観光スポット|港と松原、人道の記憶が重なる北陸の玄関口

敦賀市の観光スポット|港と松原、人道の記憶が重なる北陸の玄関口

監修:鈴king.(鴉番組/オカルト・ホラー取材7年)

目次

この町の観光スポット(北から順)

番号は記事の紹介順(北から順)と同じです。ピンを押すと名前が出ます。位置はおおよそのものです。

  1. 立石岬 敦賀半島の北端で若狭湾に突き出す岬。日本人が設計した初の洋風灯台が、小高い丘の上に立つ。
  2. 常宮神社 敦賀半島の入り江にある古社。氣比神宮の奥宮とされ、神功皇后の神託にちなむ社名と、養蚕の神の伝承を持つ。
  3. 金ヶ崎城跡と金崎宮 敦賀湾に突き出す丘に築かれた山城の跡。南北朝と戦国、二つの時代の戦いの舞台で、国の史跡。
  4. 敦賀赤レンガ倉庫と旧敦賀港駅舎 明治38年に石油倉庫として建てられた赤レンガの建物。国際列車が発着した、敦賀港の最盛期を伝える。
  5. 天筒山 金ヶ崎城とつながる、標高171メートルの小さな山。山頂の公園から、敦賀の港と街並みを見渡せる。
  6. 敦賀港と人道の港 三方を山に囲まれた天然の良港。1920年のポーランド孤児と、1940年のユダヤ人難民が上陸した歴史を持つ。
  7. 気比の松原 約1万7千本の松が1.5キロ続く白砂青松の名勝。日本三大松原の一つで、国の名勝に指定されている。
  8. 氣比神宮 越前国一宮で、北陸道の総鎮守とされた古社。空襲を免れた朱塗りの大鳥居は、国の重要文化財。
MAP DATA © OPENSTREETMAP CONTRIBUTORS
この町の基本情報(所在地・最終確認日・ご注意)を見る
所在地
福井県敦賀市
最終確認
2026.10.05
ご注意
営業時間・料金・休業日は変わりやすいため載せていません。お出かけ前に各施設の公式サイトでご確認ください。

敦賀市ってどんな町?

敦賀市は、福井県の南西部、嶺南地方にある港町です。日本海に面した敦賀湾の奥に開け、畿内と北陸を結ぶ交通の要衝として栄えました。1937年(昭和12年)4月1日に、敦賀町と松原村が合併して市制を施行しています。政庁がおかれた期間は短く、大きな力を持つ寺社もなかったため、民間の力で育った商都という性格が強い、と説明される町です。

この記事では、市内の観光スポットを緯度の大きい順、つまり北から順に紹介します。敦賀半島の北のはしの岬から始まり、古い神社、戦国の城跡、明治以降の港の遺産、そして松原と氣比神宮へと南へ下っていく道筋です。景色の美しさだけでなく、この港を通って人や物、そして命が行き交った歴史も、あわせて眺めてみてください。

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1. 立石岬

立石岬は、敦賀半島の北端にある岬で、若狭湾の入り口の西側に位置します。若狭湾国定公園に含まれ、岬から約250メートル内陸の標高121メートルの地点には、立石岬灯台が立っています。この灯台は、日本人の設計による初めての洋風灯台とされます。

敦賀半島は、花崗岩でできた半島で、敦賀湾の西側を固めるように伸びています。最高峰は西方ヶ岳の764メートルです。岬の近くには、夏に海水浴やマリンスポーツで訪れる人のある無人島の水島があります。半島の東岸には、1689年(元禄2年)8月に松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅で訪れたとされる色ヶ浜もあり、旅の文学とも縁が深い土地です。

半島はバスの便が限られる場所です。そのぶん、市街地とは違う、静かな海辺の景色が残っています。当サイトの見方では、港の賑わいに目を向けがちな敦賀の旅に、海を見張る灯台という別の視点を加えてくれるのが、この岬です。見学のときは、道路の状況や足元に注意し、無理のない計画で訪れてください。

2. 常宮神社

常宮神社は、敦賀半島の東岸にある神社で、古くは氣比神宮の奥宮・摂社とされていました。社名の「常宮」は、神功皇后の神託にあった「つねに宮居し波風静かなる哉楽しや」という言葉にちなむと伝えられます。かつては「つねのみや」と訓読みされていましたが、中世から近世にかけて音読みの「じょうぐう」が使われるようになり、1868年(明治元年)に現在の名と読みが定められました。

祭神は七柱で、本殿には天八百萬比咩命、神功皇后、仲哀天皇が祀られています。社伝では、天八百萬比咩命は養蚕の神として、遠い昔から鎮座していた在地の神とされます。ほかの祭神は、神功皇后の出征の伝説にもとづいて、703年に合祀されたと伝わります。主祭神が氣比神宮とは違う神である点が、この神社の個性です。

氣比神宮から参拝を受ける例祭の総参祭は、一説には、氣比神宮の祭神が常宮の神を訪ねる神事だともいわれます。本宮と奥宮の関係が、神どうしの訪問という物語で語られているのです。現役の神社ですので、参拝の作法を守り、祭礼の妨げにならないよう静かに訪れてください。

3. 金ヶ崎城跡と金崎宮

金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した、海抜86メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城です。源平合戦のころ、平通盛が木曽義仲との戦いに備えて築いたのが最初と伝えられます。現在も、本丸にあたる月見御殿の跡や、木戸跡、曲輪、堀切が残り、1934年には国の史跡に指定されました。

この城は、二度、歴史の表舞台に登場します。1336年から1337年にかけては、足利尊氏の入京で北陸へ向かった新田義貞が、恒良親王と尊良親王を奉じて入城しましたが、足利方に包囲されて落城しました。城のふもとにある金崎宮は、この二人の親王を祀る神社で、現役の神社です。参拝の作法を守り、静かに訪れてください。

もう一つは、1570年(元亀元年)の「金ヶ崎の退き口」です。越前の朝倉氏を攻めた織田信長は、同盟関係にあった近江の浅井氏の離反を知り、挟み撃ちの危機に陥りました。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)らが後衛を務め、信長は京へ引き返しました。当サイトの見方では、敦賀が畿内と北陸を結ぶ要衝だったからこそ、時代を代表する武将たちの運命が、この小さな丘で交わったのでしょう。

4. 敦賀赤レンガ倉庫と旧敦賀港駅舎

敦賀赤レンガ倉庫は、1905年(明治38年)に、ニューヨークのスタンダード石油会社が、石油の貯蔵用に建てた2棟の倉庫です。外国人の技師が設計したため、寸法はフィート単位でつくられています。オランダ製の煉瓦が使われ、内部に柱が見えないことも特徴です。2009年(平成21年)1月に、北棟、南棟と煉瓦塀が国の登録有形文化財になりました。

倉庫が建てられた当時、敦賀港駅からは、シベリア鉄道を経てロシア、ヨーロッパへつながる欧亜国際連絡列車が発着していました。敦賀は、東京からヨーロッパへ向かう人々の玄関口として栄えていたのです。外国製の地球儀には、日本の都市として東京などとともに敦賀の名が載っていた、という逸話も伝わります。2015年(平成27年)10月に再整備され、現在は観光の拠点として使われています。

近くには、当時の敦賀港駅舎を再現した旧敦賀港駅舎が建ち、敦賀の鉄道の歴史を伝える資料館になっています。これは1999年(平成11年)の博覧会のシンボルの一つとして建てられたもので、2009年に資料館として開館しました。当サイトの見方では、海外へ旅立つ人々の足跡が、赤レンガの壁に染みこんでいるように見えるのが、この一帯の魅力です。

5. 天筒山

天筒山は、敦賀市の市街地のすぐそばにある標高171.3メートルの小山です。金ヶ崎城の支城だった天筒山城が築かれていた山で、金ヶ崎城とは稜線でつながっています。山頂には金ヶ崎公園があり、敦賀湾や市街地が一望できる展望台もあります。駅から3キロメートルほどしか離れていないため、街中から歩いて登山口まで行ける、手軽な山です。

戦国時代の1570年(元亀元年)4月25日、織田軍が天筒山城に攻め込み、双方に数千人の戦死者が出る戦いのすえに陥落しました。城を守っていた朝倉景恒は、金ヶ崎城に退いています。山は、いまは静かな公園になっていて、曲輪や櫓台の跡が残るのみです。

毎年春には、金ヶ崎宮で花換まつりが催されます。登山道は二つあり、金ヶ崎宮を経由するコースは階段があって比較的ゆるやかです。山の東側には中池見湿地が広がっており、カモシカやクマの目撃が年に数回あるといわれます。ハイキングの際は、無理のない計画で歩き、野生動物への警戒も忘れないでください。

6. 敦賀港と人道の港

敦賀港は、三方を山に囲まれた天然の良港です。古代から栄え、平安時代には渤海からの使節のために松原客館が置かれました。江戸時代には北前船が寄港し、北海道のニシンや昆布が、関西や琉球に向けて運ばれる拠点になりました。1882年(明治15年)の鉄道開通で、港はさらに発展します。1899年(明治32年)8月4日には、開港場に指定されました。

この港は、「人道の港」と呼ばれます。1920年から1921年にかけて、日本赤十字社が、祖国を失ってシベリアに取り残されたポーランドの孤児たちを救い、敦賀の港から日本に上陸させました。そして1940年から1941年にかけては、リトアニア領事代理の杉原千畝が発給した「命のビザ」によって、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人難民が、シベリア鉄道とウラジオストクを経て、敦賀に上陸しました。その数は、約6000人とされています。

2013年(平成25年)12月には、かつて桟橋があった地点に、上陸の事実を記した銘板が埋め込まれました。近くには、この歴史を伝える資料館もあります。ここは、観光地であるとともに、多くの人の命と未来がかかった場所でもあります。碑や展示の前では、静かに向き合ってください。

7. 気比の松原

気比の松原は、敦賀湾の奥に広がる松林で、虹の松原、三保の松原と並ぶ「日本三大松原」の一つとされています。1934年(昭和9年)に国の名勝に指定され、若狭湾国定公園の一部でもあります。長さは約1.5キロメートル、広さは約34万平方メートルで、平均樹齢約200年の約1万7千本の松が並びます。日本の海岸では黒松が多いなか、ここでは赤松が85パーセントを占めるのが特徴です。

『万葉集』や『日本書紀』にも詠まれた古い景勝地で、9世紀には、渤海使のための施設・松原客館が置かれました。古くは氣比神宮の神苑として、神人が近隣住民の利用を管理していました。戦国時代、織田信長の越前攻略のなかで一度没収され、江戸時代には小浜藩の御用木として管理されました。松葉を燃料として集める近隣住民の営みが、結果として松原を残す力になったと伝えられます。

夏には海水浴場として賑わい、8月16日には灯籠流しと大花火大会が行われます。冬は、雪化粧した松林と日本海の荒波が、壮麗な景色をつくります。年に2〜3回、松の病気を防ぐ薬を撒くため、立ち入りが禁止される日があります。松原を守る努力が今も続いていることを知ると、散策も少し丁寧な気持ちになります。

8. 氣比神宮

氣比神宮は、敦賀市の市街地にある、越前国一宮の古社です。敦賀は北陸から畿内への入り口であり、朝鮮半島への玄関口でもあったため、朝廷から重んじられ、「北陸道総鎮守」と称されました。『古事記』や『日本書紀』にも早くから記事が見え、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇との関わりが深い神社です。

社殿のほとんどは、第二次世界大戦中の空襲で焼失し、現在の主要な社殿は戦後に再建されたものです。空襲を免れた朱塗りの大鳥居は、日本三大木造鳥居の一つとされ、国の重要文化財に指定されています。境内の角鹿神社は、「敦賀」という地名の由来になったと伝わる神社です。松尾芭蕉も『おくのほそ道』で「けいの明神に夜参す」と記しており、境内は、「おくのほそ道の風景地」として国の名勝に含まれています。

社名の「ケヒ」は、『古事記』では「御食津」から転じたとされ、食物の霊力を意味する説もあります。港が運んだ食べ物や産物への感謝が、神の名に宿ったのかもしれません。これは推察だが、荒れる日本海を越えて物が集まる港町だからこそ、食を司る神への祈りが、この町の信仰の核になったのでしょう。現役の神社ですので、参拝の作法を守り、祭礼の妨げにならないよう静かに参拝してください。

名物・食べ物・飲み物

敦賀は、昆布の加工地として知られています。江戸時代には、北海道から運ばれた昆布やニシンが、敦賀港を経て関西や琉球へと渡りました。これは推察だが、港が海の道の中継地だったことが、昆布の町としての顔を育てたのでしょう。

サバやイワシを糠に漬けた「へしこ」は、この地方の保存食として知られています。また、小鯛(レンコダイ)の笹漬けや、くずを使った水仙まんじゅうなども、敦賀の名物とされます。若狭と畿内を結ぶ鯖街道の一つが、この町を通っていた歴史とも、つながりを感じさせます。

どれも、港と街道の町として、山と海の産物が行き交ってきた歴史から生まれた味です。店ごとに味や製法は異なるため、出かけた先で確かめてみてください。

珍しい生き物・自然

気比の松原は、赤松が85パーセントを占める珍しい松林で、約1万7千本が1.5キロメートルにわたって続きます。松を病気から守る手入れが続けられていることで、いまの景観が保たれています。

敦賀半島は、花崗岩でできた半島で、立石岬の先には無人島の水島が浮かびます。天筒山の東側には中池見湿地が広がり、カモシカやクマの目撃報告も年に数回あるといわれます。市街地のすぐそばに、野生の自然が息づいていることが、敦賀の景色の奥行きです。

敦賀湾は、三方を山に囲まれた天然の良港です。冬でも、日本海沿岸のなかでは比較的穏やかな気候とされます。穏やかな港であることが、この町を古くから玄関口にしてきた理由の一つでしょう。

そのほか、この町の特筆すべきこと

敦賀駅は、1882年(明治15年)に開業しました。名古屋駅より5年早く、福井駅より14年早い開業だったといわれます。港と鉄道を軸に栄えた町は、ヨーロッパへの玄関口として知られ、1918年には、ロシアの作曲家プロコフィエフが、亡命の途上で敦賀港から日本に上陸しました。

毎年1月には、相生町で「敦賀西町の綱引き」が行われます。漁師の側と農民の側が綱を引き合い、その年の豊漁と豊作を祈る行事で、400年以上続くとされ、国の重要無形民俗文化財です。9月上旬の氣比神宮の例大祭と敦賀まつりも、町の大きな行事です。

1945年には敦賀空襲があり、市街地は大きな被害を受けました。戦後の区画整理で、市街地に戦前の面影を残す町並みは一部にとどまります。敦賀市は、1960年代以降に原子力発電所や関連施設を受け入れたことでも知られ、港町としての歴史とは別の顔も持っています。

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夜の顔:この町の怪談と心霊スポット

ここまで、敦賀市の昼の顔を歩いてきました。港、松原、戦国の城跡、そして人道の記憶。どの場所にも、人々が行き交い、祈り、時には大きな試練に向き合ってきた時間が重なっています。

その厚みは、夜の顔にもつながります。鴉番組には、「敦賀」という地名の由来と、額に角を持つ渡来人の伝説をたどった怪談記事があります。氣比神宮の境内にある角鹿神社も、その伝説と結びついた場所です。当サイトの見方では、怪談とは土地の歴史や信仰が、人の心に落とした影のようなものです。知れば知るほど、場所への敬意が深まります。

鴉番組では、実話怪談や心霊スポットを、行くためではなく記録するために載せています。昼の景色を知ったうえで、夜の物語も読んでみてください。

お出かけの前に

営業時間・料金・休業日・アクセスは変わりやすいため、この記事には載せていません。お出かけの前に、各施設や自治体の公式サイトで最新の情報をご確認ください。天候や災害の影響で立入が制限されている場所もあります。

よくある質問

Q. 敦賀市の観光は、どの順番で回ると効率がよいですか?

A. この記事は北から順に紹介しています。敦賀半島の岬や神社は、市街地から距離があるため、半島方面、金ヶ崎・港周辺、松原と氣比神宮の周辺と、エリアごとにまとめると回りやすくなります。バスの便数が限られる場所もあるため、移動手段は出かける前に公式の案内で確認してください。

Q. 「人道の港」とは何ですか?

A. 敦賀港は、1920年から1921年にポーランドの孤児が、1940年から1941年にユダヤ人難民が上陸した歴史から、そう呼ばれています。関連する碑や資料館では、当時の歴史が紹介されています。静かな気持ちで訪れてください。

Q. 敦賀の名物は何ですか?

A. 昆布の加工品、サバなどを糠に漬けたへしこ、小鯛の笹漬けなどが知られています。店ごとに内容は変わるため、出かける前に最新の情報を確認してください。

参考にした公式サイト・資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/敦賀市
https://ja.wikipedia.org/wiki/氣比神宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/気比の松原
https://ja.wikipedia.org/wiki/金ヶ崎城
https://ja.wikipedia.org/wiki/金ヶ崎の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/敦賀港
https://ja.wikipedia.org/wiki/敦賀赤レンガ倉庫
https://ja.wikipedia.org/wiki/敦賀鉄道資料館
https://ja.wikipedia.org/wiki/敦賀半島
https://ja.wikipedia.org/wiki/天筒山
https://ja.wikipedia.org/wiki/立石岬
https://ja.wikipedia.org/wiki/常宮神社

鴉番組

監修者:鈴king.

所属:鴉番組

取材歴:オカルト・ホラー取材7年目(2020年〜)

フォロワー数:YouTube 5,000人超え・X 25,000人超え

現地取材:30件以上

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