津幡町の観光スポット|源平の峠と干拓の潟がつなぐ加賀と能登の境
目次
この町の観光スポット(北から順)
番号は記事の紹介順(北から順)と同じです。ピンを押すと名前が出ます。位置はおおよそのものです。
- 石川県森林公園 三国山のふもとに広がる県営の森の公園。全国植樹祭の会場にもなった、町を代表する緑の拠点。
- 津幡城跡と津幡ふるさと歴史館 源平合戦の砦に始まり、前田利家が再び築いた城の跡。いまは歴史館が建ち、町の歩みを展示する。
- ひまわり村 河北潟の干拓地に広がる向日葵畑。夏、約35万本が一斉に咲き、干拓という土地の歴史を明るく伝える。
- 倶利迦羅不動寺 倶利迦羅山に建つ高野山真言宗の古刹。黒龍が剣に巻きつく不動明王を本尊とし、加賀前田家の祈願所でもあった。
- 倶利伽羅峠 石川と富山の県境にある砺波山の峠。1183年の源平合戦の舞台で、昔の北陸道の姿を伝える歴史国道。
- 潟端と河北潟の干拓 江戸前期、加賀藩が潟を開いて築いた新田の集落。河北潟を埋め立ててきた歴史の、はじまりの場所。
この町の基本情報(所在地・最終確認日・ご注意)を見る
- 所在地
- 石川県河北郡津幡町
- 最終確認
- 2026.10.05
- ご注意
- 営業時間・料金・休業日は変わりやすいため載せていません。お出かけ前に各施設の公式サイトでご確認ください。
河北郡津幡町ってどんな町?
津幡町は、石川県のほぼ中央、金沢市の北に隣り合う町です。町の名は、津幡川と河北潟を行き来する舟が停まる「津」の端にあたることに由来すると言われます。古代から北陸道が能登国へ分かれる要所で、宿場町として栄えました。町域は、かつての加賀国と能登国にまたがっており、まさに二つの国の境目にある町です。
石川県の町のなかでは最も人口が多く、金沢への通勤圏でもあります。その一方で、東の端には富山県との境をなす倶利伽羅峠があり、源平合戦の舞台として知られます。この記事では、見どころを緯度の大きい順、つまり北から順に紹介します。河北潟の干拓地から始まり、城跡、森の公園、そして東の峠と古刹へと、町を西から東へ縦断する道筋です。
1. 石川県森林公園
石川県森林公園は、津幡町にある県営の公園です。石川県政100周年の記念事業の一つとして1971年に設置が決まり、1973年5月に開園しました。動物園やボート乗り場のある津幡園地と、三国山にキャンプ施設を持つ三国山園地の二つからなり、スポーツ施設や広場も整えられています。
1983年5月には、第34回全国植樹祭の会場になりました。全国から人が集まる緑の行事の会場に選ばれたことは、町の森が広く知られる出来事でした。1994年には、全国育樹祭も町内で開かれています。
2023年には大雨で、園内の125か所で土砂崩れや道路の崩落が起こり、長く休園になりました。翌年春から一部の施設が再開されましたが、再開の範囲は変わるため、訪れる前に公式の案内で現在の状況を確認してください。森とともに暮らす町の姿と、自然の災害の大きさの両方を考えさせる場所です。
2. 津幡城跡と津幡ふるさと歴史館
津幡城は、津幡川に面した小高い丘にあった平城で、昔から交通の要衝を押さえる場所でした。1183年の倶利伽羅峠の戦いの際、平維盛が砦を設けたのが始まりとされます。1190年には、この地の地頭だった津幡隆家が居城としました。南北朝期の1351年には、富樫氏春が桃井直常の軍とここで戦っています。
戦国時代には、1576年から一向一揆の勢力が立てこもりましたが、1581年に織田方の柴田勝家らによって落城しました。1584年に、佐々成政と前田氏の間の緊張が高まると、前田利家が城を築き直し、弟の前田秀継に守らせます。その年の9月には、末森城を囲む佐々軍への対処を、この城で軍議にかけたと伝えられます。翌1585年、秀継が木舟城に移ったことで、城は廃されました。
城の跡地には、のちに小学校が建てられ、校舎の移転後の2016年に、津幡ふるさと歴史館「れきしる」が開館しました。いまは石標のみが城の面影を伝えていますが、加賀と能登の境の要所として、歴代の権力者が必ず押さえようとした土地の価値を、地形から想像することができます。
3. ひまわり村
ひまわり村は、津幡町湖東の河北潟干拓地にある向日葵の畑です。1995年に開村し、毎年5月下旬に種をまきます。7月下旬から8月上旬にかけて、約2.3ヘクタールの畑に、約35万本のハイブリッドサンフラワーという品種が咲きそろうとされています。展望台や迷路も設けられ、広い畑を楽しめるようになっています。
この畑のある場所は、もともと潟の水面だった土地です。第二次世界大戦後の国営の干拓事業で、河北潟の水面の多くが農地に変えられました。向日葵の種からしぼった油は、津幡町の特産品として知られています。
これは推察だが、干拓地に向日葵を植え続ける取り組みには、水を失った土地に新しい景色を根づかせようとする人々の気持ちが込められているのだと思われます。夏の青空の下の黄色い畑は、かつて湖だった場所の記憶を、明るい姿で伝えています。
4. 倶利迦羅不動寺
倶利迦羅不動寺は、津幡町倶利伽羅にある高野山真言宗の別格本山です。本尊は倶利迦羅不動明王で、「倶利迦羅」は黒い龍を意味する言葉に由来し、剣に黒い龍が巻きついた姿からこの名がつき、山の名にもなったとされます。成田不動、大山不動と並んで、日本三不動の一つとして紹介されることもあります。
寺伝によると、718年に元正天皇の勅願で不動明王が祀られたのが始まりで、812年には空海が不動尊像を彫り、長楽寺が開かれたと伝わります。1183年の合戦の際には堂や寺宝、記録の多くが焼けましたが、のちに源頼朝によって再興されたといいます。江戸時代の寛永年間に秀雅上人が再興し、加賀前田家の祈願所や、参勤交代の際の休憩所にもなりました。
明治初期の神仏分離で寺は廃され、手向神社となりましたが、1949年に跡地に堂宇が再建され、現在の寺として復興しています。現役の寺院ですので、静けさを大切に、参拝者への配慮を忘れずに訪れてください。山の上にある寺の背後には、峠の古戦場と同じ時間の層が重なっています。
5. 倶利伽羅峠
倶利伽羅峠は、石川県津幡町と富山県小矢部市の境にある、砺波山の峠です。峠を境に、東に砺波平野、西に金沢平野が広がります。古代から北陸道がここを通っており、加賀と越中を結ぶ要路でした。1995年には建設省の歴史国道に選ばれ、2009年には北陸道の峠道が石川県の史跡に指定されています。
この峠の名を高めたのが、1183年(寿永2年)の倶利伽羅峠の戦いです。木曽義仲の軍が、平維盛を総大将とする平家の大軍を破り、その勢いのまま京へ向かいました。平家が人数で勝っていたと伝えられる一方、夜襲を受けた平家軍が混乱し、崖から次々と落ちて壊滅したという筋書きが語られます。『源平盛衰記』には、牛の角に松明を付けて平家軍へ突進させたという「火牛の計」も載りますが、『平家物語』の諸本には見られず、中国の古い故事をもとにした創作と考えられています。
峠では毎年、春に八重桜のまつりも開かれます。多くの命が失われた古戦場でもありますので、歴史を学びつつ、敬意をもって歩きたい場所です。明治に入ると、天皇の北陸巡幸のために北の天田峠側に道が整えられ、のちの国道につながりました。峠の道の歴史そのものが、北陸と都をつなぐ交通の変遷を物語っています。
6. 潟端と河北潟の干拓
潟端は、津幡町の南西、河北潟のほとりにある集落です。地名の通り、潟の端にあたる土地で、潟を農地にしようとする試みが、古くから何度も繰り返されてきたことの痕跡が見られます。本格的な干拓の始まりとされるのは、江戸時代前期の1672年か1673年ごろです。五代加賀藩主の前田綱紀が、金沢から21戸を移り住まわせ、約3ヘクタールの新田を造ったのが潟端新村の起こりだと伝えられます。
河北潟はもともと、約5000年前には海だったとされる潟湖です。砂丘ができて湖になり、明治から昭和の初めにかけては、フナのほか、スズキ、ボラ、シラウオ、ヤマトシジミなど汽水の魚介も獲れる重要な漁場でした。1960年代からの国営干拓事業で水面は大きく縮み、淡水の湖になりました。干拓前に約23平方キロメートルだった面積は、現在では4平方キロメートル余りです。
このとき綱紀が記念に植えたというシイの大木が、いまも集落の民家の敷地に立っていると言われます。個人の敷地の中にあるものですので、見学を目的に訪ねることは控え、集落の生活を尊重してください。潟とともに生きてきた人々の長い営みが、この土地の歴史の底に流れています。
名物・食べ物・飲み物
津幡町の味として、まず挙げられるのは倶利伽羅そばです。倶利伽羅山で採れる山牛蒡の葉を使った蕎麦で、淡い緑色とコシの強さが特徴と紹介されています。古い峠のある山里ならではの、素朴な素材を生かした一品です。
河北潟の干拓地では、向日葵の種からしぼったひまわり油が、町の特産品として知られます。畑の景色が、そのまま食の産物につながっている好例です。
かつての河北潟は、フナのほか、スズキ、ボラ、シラウオ、ヤマトシジミなどが獲れる豊かな漁場でした。干拓で漁場の姿は変わりましたが、潟とともにあった食文化の記憶は、土地の歴史を知る手がかりになります。
珍しい生き物・自然
津幡町の自然を代表するのは、森と潟です。町は森林セラピー基地に認定されており、三国山の山あいには、石川県森林公園のキャンプ場などが設けられています。
一方、河北潟は、かつて海だった土地が砂丘でせき止められてできた潟湖で、干拓を経て淡水の湖に変わりました。干拓地の周辺には、アサザビオトープなどの水辺の観察の場も、町の見どころとして紹介されています。人の手が景色をつくり変えてきた自然ですが、水と暮らす営みの記憶は、今も土地に息づいています。
町内の祐閑寺には、「祐閑寺名月」と呼ばれる名木のツバキがあるとされます。静かな寺の庭で季節を感じる楽しみ方もあります。
そのほか、この町の特筆すべきこと
津幡町は、1954年に津幡町と周辺の4つの村が合併して今の町になり、その後に倶利伽羅村などを編入しながら町域を整えてきました。町域が加賀と能登の旧国にまたがり、牛首や瓜生などの集落が能登の国域だったという歴史は、この町の性格をよく表しています。
毎年9月の第3日曜日には、津幡四町の獅子舞頭合わせが行われ、清水、加賀爪、庄、津幡の各地区の獅子舞が四ツ角の交差点で披露されます。10月の上旬には、中条の4つの町の獅子舞が集まる行事もあり、地域に根づいた祭りの文化が続いています。
1964年には、津幡川の氾濫で水害が起きて、3人が亡くなり、771戸が浸水しました。水とともに生きてきた土地の、厳しい一面も忘れてはならない記憶です。
夜の顔:この町の怪談と心霊スポット
ここまで、津幡町の昼の顔を歩いてきました。干拓の畑、潟端の開拓、城跡、森、古戦場の峠、そして峠の不動の寺。どの場所にも、国境を守り、争い、土地を切り開いた人々の営みが重なっています。
その厚みは、夜の顔にもつながります。当サイトでは、倶利伽羅峠の「火牛の計」の話を扱っているほか、町内のトンネルにまつわる噂も記録として扱っています。当サイトの見方では、怪談とは土地の歴史や地形が、人の心に落とした影のようなものです。多くの命が失われた古戦場と、境目の土地の記憶が、そうした噂に深みを与えているのかもしれません。
鴉番組では、実話怪談や心霊スポットを、行くためではなく記録するために載せています。昼の景色を知ったうえで、夜の物語も読んでみてください。
お出かけの前に
営業時間・料金・休業日・アクセスは変わりやすいため、この記事には載せていません。お出かけの前に、各施設や自治体の公式サイトで最新の情報をご確認ください。天候や災害の影響で立入が制限されている場所もあります。
よくある質問
Q. 津幡町の観光は、どの順番で回ると効率がよいですか?
A. この記事は北から順に紹介しています。河北潟の干拓地方面、町の中心の城跡と森林公園、東の倶利伽羅峠と不動寺と、エリアごとにまとめると回りやすくなります。峠や山の道は季節や天候で状況が変わるため、公式の観光案内で確認してください。
Q. 津幡町の名物は何ですか?
A. 倶利伽羅そばや、ひまわり油などが知られています。提供や販売の状況は変わるため、出かける前に最新の情報を確認してください。
Q. 倶利伽羅峠は、どこの県にありますか?
A. 石川県津幡町と富山県小矢部市の境にあります。この記事では、津幡町側の紹介にとどめています。
参考にした公式サイト・資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/津幡町
https://ja.wikipedia.org/wiki/津幡城
https://ja.wikipedia.org/wiki/倶利伽羅峠
https://ja.wikipedia.org/wiki/倶利伽羅峠の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/倶利迦羅不動寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/河北潟
https://ja.wikipedia.org/wiki/石川県森林公園
https://ja.wikipedia.org/wiki/ひまわり村
https://ja.wikipedia.org/wiki/蕎麦
この周辺の心霊スポット
昼の顔とは別に、この土地には夜の顔もあります。興味があれば、記録として読んでみてください。立入に注意が必要な場所も含まれます。

