香取神宮の要石 ― 「凸」の石と「凹」の石が、利根川を挟んで支え合う理由

目次
この怪談の基本情報(地域・時代・出典)を見る
- 地域・国
- 千葉県
- 市区町村・エリア
- 香取市
- カテゴリ
- 神社伝承・自然災害信仰
- 時代区分
- 伝承時期不詳(記録は江戸時代〜)
- 出典
- 香取神宮公式サイト
- 出典2
- note「要石をめぐって〜鹿島神宮と香取神宮〜」
- 出典3
- TRiP EDiTOR「大ナマズを抑える要石ってなに?」
- 出典の性質
- 神社公式サイト・個人ブログ・観光メディア
- 最終確認日
- 2026年9月16日
千葉県香取市。下総国一宮として千年以上の信仰を集めてきた香取神宮の境内、参道の奥まった一角に、地面からほんのわずかだけ顔をのぞかせている石がある。地中に眠る大鯰の頭を押さえ込んでいるとされる「要石」だ。利根川を挟んだ対岸、茨城県の鹿島神宮にも同じ役目を持つ石があるが、奇妙なことに、この二つの石はまったく同じ形をしていない。当サイトでは、香取神宮の要石にまつわる伝承と、川を挟んで今なお支え合う鹿島神宮との知られざる関係を記録する。
由来 ― 「言向け」の神・経津主大神
香取神宮の祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。『日本書紀』では、鹿島神宮の祭神・武甕槌大神とともに天から降り、国土を平定した神として描かれる。ただし二柱の性格には違いがあるとされ、武甕槌大神が力による直接的な制圧を担う神であるのに対し、経津主大神は言葉で相手を説き伏せる「言向け(ことむけ)」を担う神だとする解釈もある。この二柱の神が、それぞれの神域で要石として大鯰を抑えているというのが、香取・鹿島に共通する伝承の骨格である。
香取と鹿島は、古代には「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれた広い内海の入り口を押さえる位置にあった。現在の霞ヶ浦や印旛沼、手賀沼を含む一帯に広がっていた内海で、朝廷が東国へ進むための重要な拠点だったと考えられている。両社が武神を祀る古社として重んじられたのは、こうした地勢の重みが背景にある。鯰を押さえる要石の話も、もともとは「東国の入り口を守る神」への信頼から育ったのかもしれない。
「凸」の石と「凹」の石 ― 一匹の鯰を挟む二つの神社
香取神宮の要石は凸型、鹿島神宮の要石は凹型をしているとされる。地表からのぞく部分は、両社ともにこぶし大ほどのささやかなものにすぎない。しかし伝承によれば、その下には途方もない大きさの鯰が横たわっており、二つの石が地中深くで繋がり、今も大鯰を押さえ続けているのだという。どちらが頭でどちらが尾に当たるかは、伝えによって語り方が異なる。利根川という大河を挟んで十数キロメートルも離れた二つの神社が、目に見えない地面の下で一匹の巨大な生き物を共同で封じ込めている――そう考えると、静かな境内の足元に広がる暗闇の存在感が、急に重みを増してくる。この地域の人々にとって、地震という脅威がいかに切実で、抑えても抑えきれないものだったかを物語る伝承である。
現状 ― 木立の中に佇む信仰の対象
現在の香取神宮の要石は、境内の木々に囲まれた、日差しの届きにくい静かな一角にひっそりと祀られている。鹿島神宮の要石に比べると訪れる人は少なく、あたりは驚くほど静かだが、地震学や民俗学に関心を持つ参拝者からは根強い人気がある。案内板には経津主大神と武甕槌大神の伝承が併せて紹介されており、両社の関係性を知った上で参拝する人も少なくない。
なお、要石が地震を鎮めるという話は、記紀にそのまま書かれているわけではない。国土平定で国津神を鎮めた武甕槌大神の働きが、のちに「大地を石で押さえた」という形に結びついたものだと考えられている。鹿島神宮の要石は花崗岩で、地上に出ているのはほんの十数センチほどだという。地震を鯰が起こすというイメージが広く定着するのは、江戸時代の後半だったとされ、1855年の安政の大地震のあとには、鹿島の要石を題材にした鯰絵が盛んに出回った。
江戸時代には、「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」という歌を紙に書いて唱え、門に貼れば地震の被害を避けられる、という風習もあった。揺れを恐れる人々にとって、この歌は小さなお守りだった。今も要石の前に立つと、そうした祈りの歴史が、足元の小さな石に重なって見えてくる。
考察 ― なぜ「同じ形」ではいけなかったのか
当サイトの見方では、鹿島と香取の要石があえて凹凸という異なる形で伝えられてきたことに、単なる偶然以上の意味があるように思う。もし二つの石が同じ形をしていたら、それぞれの神社が独立して大鯰を抑えているという話になっていたはずだ。しかし凹と凸、つまり片方が欠ければもう片方も意味を失う形として語り継がれてきたことで、鹿島と香取は「単独では成立しない、一対の封印」として位置づけられている。裏を返せば、どちらか一方の石が欠けたり、動かされたりした瞬間に、封印そのものが崩れかねないということでもある。これは、一つの神社の力だけでは到底制御しきれないほどの脅威として、当時の人々が地震を、そしてその下に眠るものを捉えていたことの表れではないだろうか。
これは推察だが、武甕槌大神が「力」を、経津主大神が「言向け」を象徴する神だとする解釈を踏まえると、この要石信仰には、力だけでも、言葉だけでも自然の脅威には対抗できない、という古人の実感が込められているのかもしれない。制圧する力と、説き伏せる力。相反する二つの性質を持つ神が、十数キロメートルも離れた場所から手を伸ばし合うようにして一つの脅威を挟み込んでいる――その構図を思い浮かべると、香取神宮の静かな境内も、少し違って見えてくる。地上では何事もない顔をした小さな石が、実は今この瞬間も、目に見えない何かをこの手で押さえ続けているのだとしたら。災いを鎮めるには単一の解決策ではなく、異なる力の組み合わせが必要だという、当時の人々なりの世界の捉え方であると同時に、その封印がいつまで保たれるのか、誰も保証してくれないという不安の裏返しでもあるように思う。
これも当サイトの想像に過ぎないが、地面にわずかに顔を出しているだけのこの石は、地中でどれほどの深さに及ぶのか、いまも分からない。しかも、確かめようとした記録がある。江戸時代の1664年、水戸の徳川光圀は、鹿島と香取の要石の周りを掘らせたとされる。ところが根元には届かず、一説では、掘った穴が日没後に一晩で埋まってしまったとも伝わる。真偽はともかく、「掘っても底に届かない」という話そのものが、この石を地の底の柱として語りたかった人々の思いをよく表している。
最後に、地震という出来事をめぐる向き合い方について。要石の伝承は、地震を「止められるもの」として語るが、実際には、大きな揺れは古来くり返し人々を襲ってきた。それでも人々が石を拝み、歌を唱えたのは、願えば必ず防げると信じていたからというより、無力感をそのまま抱え込まないための拠りどころが必要だったからではないだろうか。これは推察だが、封じ込めの物語は、災害を前にした人々が自分たちの暮らしを保つための、一つの知恵だったと思う。
普段の顔 ― 東国三社めぐりの拠点として
香取神宮は要石の伝説だけでなく、鹿島神宮・息栖神社とあわせて「東国三社」と呼ばれる由緒ある古社としても知られ、下総国一之宮として古くから武家の崇敬を集めてきた。杉の巨木に囲まれた参道や、重要文化財の朱塗りの楼門・本殿は荘厳な雰囲気を漂わせ、初詣や七五三には多くの参拝客で賑わう。境内から少し歩いた参道沿いには、名物の草だんごや川魚料理を出す店が並び、利根川舟運で栄えたかつての門前町の面影も楽しめる。
訪れる際に
香取神宮は現役の神社であり、要石も大切な信仰の対象として祀られている。奥宮方面へ向かう参道は木々に囲まれ、日中でも薄暗く静まり返っているため、歩きやすい靴での参拝をおすすめする。石を傷つけたり動かそうとしたりせず、あくまで古くからの信仰と伝承を伝える史跡として、静かに見学してほしい。
本記事には、地震などの災害にかかわる話題が含まれる。つらい気持ちを抱えている方は、よりそいホットライン(0120-279-338、24時間・無料)へ相談してほしい。
よくある質問
Q. 香取神宮の要石と鹿島神宮の要石は、どちらの方が大きいのですか?
A. 地上に見えている部分だけを比較すればほぼ同程度の大きさだが、いずれも大部分が地中に埋まっているとされ、正確な大きさは分かっていない。
Q. なぜ香取神宮と鹿島神宮の両方に要石があるのですか?
A. 経津主大神(香取)と武甕槌大神(鹿島)という二柱の神が、それぞれの神域で地中の大鯰を頭と尾から挟み込むように抑えているという伝承があるためとされる。
Q. 香取神宮の要石は誰でも見られますか?
A. はい。境内にあり、参拝時間内であれば見学することができる。場所は境内の案内図などで確認してほしい。
鴉番組では、こうした日本各地の伝承や心霊スポットの取材動画もYouTubeで公開している。あわせてご覧いただきたい。
Q. 鴉番組は香取神宮の要石で取材・撮影を行いましたか?
A. いいえ、香取神宮の要石では現在取材を行っておらず、実施を検討中です。その他の心霊スポット・怪談の取材動画は、カラスチャンネル(YouTube)よりご覧いただけます。
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